1945年、B-29が
東京大空襲を本格的に開始すると東京を守る為、
茂原市に大きな航空基地が作られました。
当時、建設には地元の
農民や学生も作業に協力。
その後、各地から
優秀なパイロットが、
集められ九十九里海岸から飛来してくる
敵機B-29などに向けて出撃した。
本土を守る為、数えきれないほどの
空中戦があったと記録が残っている。
ここでは第252空が、防衛にあたっていたとされている。
写真は、掩体壕というもので、ゼロ戦を守る為に
作られたものです。空から見ると風景に同化して、
ゼロ戦が隠されているのが、見えない作りになっている。
コンクリートの厚い壁となっており、多少の攻撃にも耐えられた。
記録では戦後無傷のゼロ戦が約70機残っていたとされている。
戦時中、この中にゼロ戦が、出撃寸前まで収められていた。
敵機発見の無線連絡があると隊員がゼロ戦に乗り込み
エンジンを発動させ、ここから滑走路まで動いて加速して飛び立った。
戦闘記録によると、東金や睦沢の上空で多くのパイロットが戦死している。
中には、機体が攻撃を受けて大破しパラシュートで脱出したが、
陸に到達する寸前に敵の機銃で撃たれて亡くなったパイロットがいた。
茂原航空隊の活躍は凄かった。
終戦に近いころ第252空からも数名が、
神風特別攻撃隊員として出陣している。
掩体壕は壊されることなく当時のままの状態で今でも約10基程残っている。
当時、隊員はどこに待機して、
どれくらいの時間でゼロ戦に乗り込み
飛び立ったのか不明ですが、
司令部があったとされる場所は、
線路を渡った国道沿いの山にあった。
※現ベイシアがある場所に近い山。
掩体壕は幅広く広がって配置されている。
そして、多くが爆風で破損しないように
方向違いに作られた。
戦時中はもっとあったとされております。
今でも11基程が残っており
一部は、私有地に有り倉庫として
現在も使われている。
こんな綺麗な状態で残っているのは大変珍しい
日本が太平洋戦争を
起こす前に作られた。
千葉の防衛拠点として
香取航空隊は編成された。
アメリカによる日本発空襲の際に
爆撃され、その後基地として強化が進められた。
日本のゼロ戦の名機が配備され、
今では、3基しか掩体壕が残っていないが、
当時は、100基近くあったと記録されている。
当時の滑走路は、未だに残っており、
車のブレーキテストのコースに使われている。
黄色い飛行機は、近くの公園に展示されている自衛隊管理の米軍機である。
館山市にある赤山地下壕
(館山航空隊司令部跡)
近くにある事務所で先ず入場手続きを行う。
その後、渡されたヘルメットと懐中電灯を
持って中に入ることが可能。
1945年、東京への空襲が激しくなると、
本土決戦に向けて防空対策が急がれた。
館山でも攻撃が激しくなり、
裏山にあった壕を、
もっと大きく作り司令部を壕の中へ移した。
赤山の地下壕は状態がとてもよく、
ほとんどが公開されているが、
未だに公開されていない部分を
含めるとかなり中は広い。
山の裏手には、
ゼロ戦を守る為の掩体壕が1つ残っている。
戦時中は、もっとあったと思われるが現在は住宅街となっている。
館山航空隊と木更津航空隊は、東京防衛の重要基地だった。
今でも、自衛隊の航空基地として利用されている。
※写真のトンネルは、赤山地下壕への出入り口である。
江戸時代ペリー来航後、
異国の船団から
母国を守る為に
東京湾の入り口にあたる
この場所に明治時代砲台が
作られたそうです。
その役目が終わった
昭和初頭より
新たな本土防衛の為に
基地が再整備された。
太平洋戦争時は、本土に来襲する
B-29を監視する基地としてサーチライトが高台に設置された。
海岸沿いには、人間魚雷回天の発進基地として
整備されていたが実戦では使われていないようだ。
格納庫、司令部と思われる建物。今では、花壇となってしまった砲台の跡
↑公園内のビジターセンターには当時の弾薬箱などが展示されている↑
↑B-29が飛来した際にサーチライトの光を機体に照らす施設の跡地↑
右の写真は、人間魚雷回天を発射させるレールの跡地。
左の穴は司令室跡地だろうか?
回天は、船でこの場所に運ばれ設置されていたのでしょうか?
敵艦隊が東京湾に突入したという情報が入った際、
回天が発射される予定だったと思われる。
戦時中都心の工場が大空襲を
受け始めると工場は安全な
山の中などに移動となった。
大網市にある日立航空工場跡地も
その一つである。
当時、朝鮮人や地元の人の協力で
山に深くて大きな豪が作られた。
ここではゼロ戦などの部品が
作られた記録が残っている。
戦争が終わると進駐軍が真っ先にこの工場跡地を視察にきたそうだ。
米軍の調査では、この様な工場は脅威であり
もし全てが完成してフル稼働していたら戦争は長引いたかもしれないとある